続・塾長回想録:情報通信技術に目覚めた青年期
計算のためのコンピュータ
私は原子力こそが理想のエネルギー源だという共同幻想に囚われて、原子力について学んだ青年たちの一人であった。原子力を電力に変換するためにはまずは核分裂性元素であるウラニウム(235U)またはプルトニウム(239P)の核分裂連鎖反応を制御して、熱源にするための原子炉を用意しなければならない。原子炉で235Uまたは239Pを定常的に核分裂させるための規模である臨海半径を計算して、核分裂で発生する中性子の速度を減速して熱伝達物質となり、冷却材にもなる液体の巡回を適切に制御しな
ければエネルギーは一挙に解放されて爆発してしまうことになる。
原子炉の臨海半径を人手で計算するには大変な労力と時間を要するのである。研究室には大型計算機などなかったので、初めの頃は機械式計算機(回転式のタイガー計算機)と電卓(1桁1万円のカシオ計算機)を使って何日もかけて計算したのを覚えている。
暫くして大学に大型汎用コンピュータ(IBM1440)が導入された。当時の大型汎用コンピュータは計算能力も低く記憶容量も小さく、今のパソコン以下の代物だが、プログラムさえすれば自動的に計算してくれるのがよかった。何日もかかった原子炉の臨海半径の計算結果が数時間で出てくるのである。
その後、三井情報開発(MKI)から独立して日本ナレッジインダストリー(JKI)を創業された(経緯は講談社文庫・本所二郎著「ソフト技術者の反乱」に詳しい)西尾出氏(1923-1992)が東海大学教授として着任されたのを機に、東海大学に今まで以上に高速で記憶容量も大きい汎用大型コンピュータ(UNIVAC)が1984年に導入された。私は研究科原子力専攻課程へ進学してUNIVACを利用して“役に立たない”「極低温原子炉の臨海半径」という論文を完成させた。
そのころ、米国に留学していた友人から個人でも買えるマイコン(マイクロコンピュータ:後にパーソナルコンピュータ:パソコン)が販売されたことを手紙で教えてもらったが、日本ではまだ高くて手が出せなかった。私が個人的に借金をして初めてパソコンを手に入れたのは1983年のことであり、NECの「PC8001」だった。NECのマイコンショップ「ビットイン」がパソコン用プログラムを販売してくれるという話を聞いて富士通ではなくNECを選んだ。本格的なパソコンとの奮闘はここから始まったの
である。
大学在職中の1984年には、JKIの西尾氏主宰の「米国キャンパスコンピューティング調査団」に同行させていただき、大学で始まったインターネットの活用状況を視察した。その報告書をもとに「インターネットの教育研究への応用技術について」と題した論文をまとめて学長に提出した。
原子力研究課程を中退した後に計算センターのシステムエンジニアに採用され、予備校の全国評価試験の標準偏差値プログラムやバイクメーカーの部品管理システムなどをNECの大型汎用コンピュータ(NEAC2200)を使って開発して稼いだ。残業代が基本給の何倍にもなるという超過重労働だった。体力的限界を感じてシステムエンジニアは2年で卒業した。
富田氏との出会い
1984年1月、大学出版会で理工系の専門書と教科書の企画編集を担当しながら、PR季刊誌『科学サロン』の企画編集も担当させてもらった。同機関誌28号の特集テーマ「現代コンピュータ事情」の随筆を依頼した一人が富田倫生氏(1952-2013)であった。
富田氏と会って話したときにパソコンが人の生き様に大きな影響を及ぼすことについて、彼の知人を例に挙げて熱く語ってくれたことが執筆依頼のきっかけとなった。「鬼っ子を生んだもの」と題した彼の随筆は、私が抱いていた幻想と連帯するもであった。翌1985年に旺文社から「パソコン創世記」が出版された。“鬼っ子”としてのパソコンがIBMやNECからではなく、異端の個々人から創造された経緯を開発史とエピソードを交えて解説した優れたドキュメンタリーとしてまとめられている。
富田氏は1987年に著作権切れの著作物を多くの人々に自由に読んでもらうWEB『青空文庫』を立ち上げた。著作権切れの原本をボランティアの手でパソコン入力し、校正作業を経てインターネット上のWEBに公開していく運動体として始まった。世界初のインターネット電子図書館だ。大企業の産業活動では出てこない“鬼っ子”的発想に私は共感した。富田氏は知の共有推進の立場から、著作権の死後50年留保が70年に改訂されることに反対していたが、残念ながら米国の圧力で2018年には死後70年に延長されることが確定されたのである。
個々人が固有の発想に基づいて創造する著作物はそれぞれの知的財産である、と同時に個々人が所属して生活している環境に実存する人々が共有する知財でもある。著作者個人の死後70年留保となると、新しい発想と創造を規制することになる。富田氏も私も人類共有の知財として保存して継承する必要性を主張するのである。『青空文庫』はインターネットによって協創された自由に利用できる電子図書館である。一時はアップル社と連携していたが、ビジネス資本からの自由のために、同社とも袂を分かって継続している。
掲示板の活用
私は1983年にPC8001を入手して、音響カップラというアナログの音声をデジタル信号に変換する装置を電話機の受話器に設置して通信する技術「パソコン通信技術」を習得した。当時は通信速度が300BPS(Bit per Second)という低速なものだったが、すぐに1200BPSから2400BPSへと高速なものが販売された。現在実現されている通信速度に比較すると何とも低速ではあったが、繋がることの意味は感激的であった。
私は電話代も顧みずに、世界中の電子掲示板(Bulletin Board System:BBS)を調べて接続して情報通信(ICT)の始まりに参加できたことを実感した。国内の電子掲示板の一つである秋葉原に事務所がある本田通商(UNIXコンピュータの中古販売をしていた)のBBSに接続してUNIXについても学習することができた。
本田通商のBBSに何度か接続していた際に、私の連絡先を書き込んでおいた。本田通商の社長から「君が使っているパソコン通信ソフトを販売させてほしい」という連絡があり、PC8001用は8000円、PC8801用は8800円、PC9801用は9000円で販売していただいた。いずれもプログラミング言語は当初はインタープリタ言語のBASICで書いたものだったが、その後、コンパイラ言語のMicrosoft Cに書き換えて進化させていった。
パソコン通信専用BBSには上手く利用できても、電電公社の営業からテスト用のパスワードを借りて使おうとしたリモートコンピューティング「科学技術計算システム」(DEMOS)では、接続はできても情報が伝送できない。1ヶ月ほど悩んだ挙句にパソコンと大型コンピュータではデータ区切り文字(Delimiter)が違うということが判明した。パソコンではCRLFであるのに対して大型コンピュータではNULLなのである。当時はリアルタイム処理ではなく、接続してFORTRANプログラムを伝送すると数分後に結果が出ているという代物だ。
電電公社はもう一つDRESSというサービスも始めていた。DRESSでは在庫管理のプログラムも用意されていた。通常のオフコンで1時間ほどかかる在庫掲載を数秒で処理するというスピードを誇っていた。電電公社ではDEMOSやDREESを利用するために利用料の他に高額な専用端末を販売していた。弁護士や建築設計士などの個人営業の事務所では設備投資が厳しく、私の友人たちから安いパソコンで判例データベース検索や構造解析計算ができないものかと相談された。私のパソコン通信ソフトをDEMOSとDRESS対応にバージョンアップして提供して喜ばれたのを覚えている。
私のパソコン通信ソフトはパソコン雑誌にもオープンソフトとして公開したことがPRにもなった。その結果、オーム社からからソフトウェアパッケージ「以心伝心」と称して販売してもらうことができた。その後、ソフトバンク社の『Oh!PC』というパソコン関連雑誌で、ソフトウエアハウスが開発した同種のソフトウエアとベンチマーキングで比較した記事が掲載された。残念ながら誰でも簡単に使える私の「以心伝心」は使いやすいが機能的には劣っているという評価が下された。
情報民主主義への道
パソコンのおかげで私たちは誰でもが計算能力のみならず、情報の収集力と発信力を向上できるようになった。1984年8月に個人的にマイクロメディア研究所を立ち上げた時点から、パソコンやタブレットやスマートフォンを情報共有手段として活用してきた。富田氏の志である情報共有の進化と併せて私は“情報民主主義”を主張しているのである。マイクロメディアという名称はマイクロコンピュータが計算機械ではなく、情報媒体システムとして進化していることを意味するものである。
資金力のある国家や大企業だけが利用してきたコンピュータが多くの人々が手にすることができる時代が到来したのだから。私たちは今やパソコンだけでなくタブレットやスマートフォンを使って、世界中の情報と知識にアクセスすることができ、個々人の知見を世界中に発信することも可能になった。
しかしながら、今、そこに潜んでいるリスクが無視できないほど大きくなっていることを懸念してやまない。サイバーセキュリティは如何にすべきか。人為的に生成されるウィルスの増殖を如何にして防ぐべきか。今後の人類共通の課題として、モラルを超えた共存共栄の原理を創造していくべきかと思う今日この頃である。
この記事の作者
西田 光男
マイクロメディア研究所・ロジスティクスIT研究所 代表