物流塾

塾長回顧録:宇宙開発に明け暮れた青少年期のこと

「自然界の驚異」を読んで

 小学6年の時に図書館で借りた「自然界の驚異」という本を読んで感動した私は、その著者として奥付の上に紹介されていた原田三夫先生に感想文を手紙にしたためて送った。

原田先生は、東京帝国大学理科大学(現東大理学部)を出て、東京府立第一中学校(現日比谷高校)の教諭をしながら、『子供と科学』、『少年科学』、『科学画報』、『子供の科学』(今でも月刊誌として継続刊行されている)などを創刊されるなど、科学技術の啓蒙活動に注力されていた。原田先生は、国連友の会の呼びかけで、1955年に日本宇宙旅行協会(Japan Astronautical Society)を創設した。火星大接近にあやかって、日本全国に火星観測網を設置したことでも知られている。その観測網が米国に先駆けて打上に成功した世界初の人工衛星「スプートニク1号」の観測にも活躍したことは記録に残っている。

 原田先生が私に返信された手紙には日本宇宙旅行協会の会員証である「火星土地分譲予約受付証」が同封されていた。「火星土地分譲受付証」を巡っては詐欺行為だと批判に晒されたこともあるようだ。NHKの解説員だった徳川無声氏が番組のなかで「ユーモアと夢のある話だ」というような絶賛の言葉をいただいたとも聞いている。徳川氏の放送のおかげもあってか、数千名の会員を獲得するに及んだとのことだ。銀座のビルを借りて事務所を開設し、毎月のように宇宙に憧れる会員を集めて研究会を開催していた。

 大学に入った私はロケット工学研究会に入会して固体燃料を手で捏ねて作り、アルミ角材を旋盤などで加工して噴射口(ノズルチェンバー)を鉄パイプに取り付けた小型ロケットを製造して、湘南や房総の海で飛ばして遊んでいた。ときどき原田先生の主宰する集まりにも参加させていただいたことを懐かしく思い出している。

 学生のころから同人誌や学生新聞の編集をしていたこともあって、私は日本宇宙旅行協会の幹事にさせてもらい、機関紙『宇宙旅行』の編集の手伝いをさせてもらった。原田先生はご高齢になって千葉県大原に「花星庵」という小さな家を建てて蟄居生活に入られた。私が宇宙旅行協会のことで教えてもらうために「花星庵」を訪ねてから暫くして1977年に原田先生は87年の生涯を閉じられた。

本格的な宇宙開発の時代へ

 米ソ二大国の宇宙開発競争が本格的に始まり、人工衛星から人間衛星、そしてケネディ大統領の宣言により、米国先行の月面を目指してアポロ計画が進められた。宇宙旅行協会の会長は原田先生が「花星庵」に入られた後は先生の意を受けて、朝日新聞科学部から独立されて科学評論家をされていた日下実男氏に引き継がれ、1971年には日本宇宙飛行協会に改名され。機関紙『宇宙旅行』も『宇宙飛行』と改題して刊行を継続した。

 本格的に宇宙開発を進めるために再利用ロケットとしてスペースシャトルが開発され、いずれ民間人も搭乗できる宇宙バスが実現できるという日下実男氏の発想で1978年に「スペースシャトル友の会」を発足して、記者会見を中野サンプラザの会議室で開催した。私も幹事役として参加して、ラジオ、テレビ、新聞、週刊誌などのメディア各社に紹介された。日下会長はその直後に体調不良で入院されたために、私がメディア各社に晒されてスペースシャトル友の会の説明に追われることになった。

 スペースシャトル友の会の会員証は「スペースシャトル搭乗予約券」と明記して入会金を振り込まれた会員に配布した。「火星土地分譲予約受付証」と同様のうたい文句で「スペースシャトルに民間人が登場できるようになった際には会員を優先的に登場手続きができるようにする」と書かれている。同協会ではスペースシャトルの詳細を解説した『スペースシャトルガイドブック』と年2回『スペースシャトルニュース』を刊行して会員に配布した。また、スペースシャトルの初飛行計画に合わせて、スペースシャトル発射見学ツアーを実施し、当時NASA長官James C.Fletcherにスペースシャトル友の会の会員が描いたスペースシャトルを模した宇宙バスの絵画を贈呈した。これによってNASAもスペースシャトル友の会の存在を認知したものと喜んだものだ。

 そして1980年には国際宇宙航行連盟(International Astronautical Society)の世界大会が東京で開催されることになり、私も開催国側の実行委員の一人として参画した。会議では来日された米ソの宇宙飛行士達と顔を合わせることができた。

 その後、東京で「大スペースシャトル展」が開催されたときには、ハワイ出身の日系空軍パイロットでありスペースシャトルパイロットに予定されていたEllison Onizuka大佐が来日され、私もスペースシャトル友の会の幹事として挨拶することができた。しかしながら、Onizuka大佐は1986年1月28日に打ち上げられたスペースシャトル「チャレンジャー号」の爆発で帰らぬ人となってしまった。

 ハワイの米国空軍墓地に故Onizuka大佐の墓があるが、私はハワイに行ったときに一度墓参させていただいた。

 また、1979年8月以降、ペースシャトル友の会が毎年夏休みに企画主催した「Space Summer Study 」では、宇宙関連施設への見学会も実施した。八ヶ岳の麓にある野辺山宇宙電波観測所には2回訪問し、そこでお会いした森本雅樹教授が主宰していた「SETIの会」(SETI:Search for Extra Terrestrial Intelligence)にも参加させていただいた。SETIの会の集まりは、星々を眺めながらおせち料理を食べ酒を飲むということで命名されたという。実際に宇宙にはアルコールが溢れているというジョークも飛ばしていた。

スペースコロニーへの夢想

 私の青年期の宇宙開発への造詣は、日本宇宙飛行協会と並行してスペースシャトル友の会での活動から得られたものが多いが、自然と人間との関係から生物学にも興味を持ち、Charles Robert Darwinの進化論以上に、日本の生態学者である今西錦司の棲み分け理論を学んだことによるところが大きい。

 競争と共存と棲み分けについて考えるとき、人類の進化の行方が宇宙への棲み分けを意味しているのではないかと考えた次第である。

 そのように空想していた頃、NASAに勤めていた Mark Jonesから米国プリンストン大学の物理学者であるG.K.O’Neillが提唱しているスペースコロニー(宇宙植民地:Space Colony)の実現を目指している「L5協会」の日本支部になってほしいという依頼を頂いた。私はその時、「月資源開発研究会」も始めていたので、その会を日本支部にすることで合意した。“Ragrangian Point 5”という力学的特異点に回転体を構築して人工重力空間を創造し、太陽光で電力を供給して居住環境を作ろうという構想だ。資源は月と地球から持ち込み植物を栽培して自給するという構想は理論的には可能だが、経済的には実現不可能ということで、絵空事に終わっている。

 全人類が国家を超えて戦争放棄して一丸となって取り組むテーマとして新人類が進化する一つの道標としての宇宙への棲み分けが可能性を帯びてくるだろう。

 ある縁でチェロキーインディアンの末裔であるTom Hames という男と出会ったのもそのころのことだった。彼はレンズ磨きの職人だったが、失業した後に始めた宇宙絵を描き始めていた。私がサンフランシスコ空港で会ったときに、彼は油絵とエアブラシで描いた星雲の絵とか惑星の絵などを数枚プレゼントしてくれた。30年近く昔のことだが、宇宙への憧憬を共有していることで親しく話ができたことを覚えている。

 Arthur C. Clarke原作、Stanley Kubrick監督の「2001:A Space Odyssey」に登場する”Monolith”と”HAL9000“は人類の進化の行方を示唆しているのではないかと思うのは私一人だろうか。

 

この記事の作者
コラム記事のライター
西田 光男

マイクロメディア研究所・ロジスティクスIT研究所  代表

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